こんにちは。モンゴルでプロサッカー選手をし、次のヨーロッパ市場開幕に向けて準備中の阿部速秀です。サッカー選手がサッカー選手にインタビューをするってどんな感じかなと思いましたが、時間があっという間に過ぎ、楽しい時間でした。自分にはない経験をされていて、中村選手の内側の強さに驚かされたインタビューでした。
中村選手のショートプロフィール
1991年生まれ、27歳。小学3年生時に地元の少年団でサッカーを始め、中学、高校、大学と常に全国の舞台に立ち続け日本ではハイレベルな中サッカーをする。怪我や様々な葛藤の中、海外へ挑戦しプロ契約を勝ち取り、現在はフリーで来季のチームを探している。
サッカーとの馴れ初め
小学校3年生の時にサッカーを始め、6年生までは地元の少年団でプレーをした。地元の少年団でプレーする中、杉並トレセンに選出される。それをきっかけにトレセンの目に留まり、中学、高校と6年間三菱養和巣鴨に進む事となった。関東でサッカーをしている人なら知らない人は少ないくらい知名度が高く、Jユースに匹敵する強いチームである。
中学時代はチーム、個人共に輝かしい成績をあげる中、3年時には10数年続いていた全国大会出場記録を閉ざしてしまう。そして、東京都選抜として韓国のソウルに行き、海外選手と初めて対峙した。『身体が大きくて、体格の差が激しかった。だからこそ技術で補う事をこのソウル遠征で学んだ』とその時の経験は今でも生きている。
ターニングポイント
高校1年生の時とある出来事が起きる。それは同じチームの先輩の死である。
全国大会決めの試合がある前日、こう先輩が交通事故に遭った事を知らされる。
そして、その試合が終わるとコーチの口からは、実は昨日既に亡くなっていたことを告げられた。
サッカーが出来る事は当たり前ではなく、幸せな事だとこの出来事の後から考えるようになった。
人として成長した試合
高校2年生、先輩最後の試合でまさかの退場。退場する前は勝っていたチームが逆転で負けてしまった。先輩たちとのサッカーは今日で終わり、そんな試合で退場してしまった。スタンドにいた両親は先輩達の親に頭を下げ、先輩達は泣き崩れる。友達や学校の先生も会場まで足を運び観に来てくれていた。そんな光景の中、自分のせいだと思って落ち込んでいた時に先生が『明日胸を張って学校へ来い』、そしてコーチが『来年必ずリベンジしよう』と声をかけてくれた。この試合での経験が高校3年生の時の高円宮杯(全国)3位に繋がった。
怪我に悩まされた大学時代
スポーツ推薦で専修大学に進んだ中村選手は、200人の部員がいる中で1年生からスタメンで出場した。当時関東大学サッカーリーグ2部だった専修大学を1部に引き上げたうちの一人。(そこから専修大学は異例の4連覇を成し遂げ、全国大会でも優勝をした。)しかし2年に上がる春に右脛を骨折。夏に復帰するも、自分のポジションには現在でもJリーグで活躍する選手が。その年に1部優勝、全国大会優勝をしたがなかなかスタメンには絡めずにいた。
焦りと不安が態度に出始めてしまい、5軍へ。トップチームの応援に回り、トップチームの良くない事を言う中、両親は必ずトップチームの試合を観に来ていた。『自分が出ていない試合を観に来る両親』『自分は何をしている』『自分が試合に出なくちゃいけない』改心し、努力した大学3年の夏にトップチームに上がるも膝の靭帯を怪我、そして大学4年春第五中足骨骨折。何度も大きな怪我に悩まされが4年時の優勝決定戦ではスタメン出場し、優勝。やっと親に恩返しが出来た瞬間だった。
更なる障害
卒業後怪我が多いからプロは無理だと言われるが、諦めきれずヴァンラーレ八戸(現在J3)へ。合流初日、ジャンプ着地と同時に両足第五中足骨骨折。復帰後、2014年10月練習過多によりオーバートレーニング症候群発症してしまう。サッカーから離れ、今後を考える。
でもサッカーしかない、そしてもっと上に行きたい、海外に挑戦するしかないと思い、2015年4月スペイン、ドイツへの挑戦を経てドイツでプロ契約を勝ち取る(KFC Uerdingen)。しかし、スター選手が多く在籍するチームでなかなか出場機会に恵まれずに苦しんでいた。日本からお世話になっている方々が試合を観に来る時、今までの努力が実り、ロスタイム試合残りわずかで試合に出場。『本当に少ない時間だった。でも努力は必ず報われると確信した試合だった』次節試合に出場し、この調子で行けると思った矢先に鎖骨を骨折し、同じディビジョンのチームへ移籍させられてしまった。
長く苦しい無所属期間で芽生えた想い
ドイツでのシーズンを2017年11月で終え、帰国後すぐにJリーグのチームにアポイントを取るもなかなか上手くいかずにこじつけたのは1チーム。その間にドイツに渡り、チームからオファーを受けるも断り、Jリーグ一択へ。しかしほぼチャンスなしで練習参加期間が終わってしまう。2018年11月オーストリア3部からチャンスが回ってきたが、1ヶ月前に脛を骨折。痛み止め注射を打ち、痛み止めを飲み強行出場し活躍するも様々な問題で契約には至らなかった。2019年1月、ヨーロッパ最貧国アルバニア挑戦で衝撃の光景を見にした。ガラスの上を歩く子供達や、ゴミ溜めで生活する人達を見て、サッカー選手としてやっていく以外にもこのような環境を変えていきたい、貧困国への援助活動をしたい、子供達の環境を整えていきたい、そんな思いが芽生えた。その後、オマーンに挑戦するも、出発直前で選手が埋まってしまったと連絡が来る。オマーンに向かうも契約が決まらず”引退”という文字がちらつく。
父の思いを背負って
高く、厳しい上を目指すあまり、近くの契約をしサッカー選手として活動する事に対して視点が定まらなかった。給料や待遇が視野に入ってしまい、契約まで至らずにいた。そして今まで口を出さなかった父が『このまま終わって欲しくない』と話してくれた。父の思いを背負ってやりがいを感じる所でプレーする事を心に誓った。
まとめ
今後サッカー選手としてだけでなく、貧困国などの援助活動も考えている中村選手。何度怪我しても這い上がり、悔しい経験と共に成長してきた感じがひしひしと伝わってきました。このような経験をしたからこそできる事なのかもしれません。同じサッカー選手として高みを目指して頑張っていきましょう!!!!