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目標はサッカーJリーグ! モンゴルで「プロ」にこだわる阿部速秀(あべはやひで)選手に迫りました!

目標はサッカーJリーグ! モンゴルで「プロ」にこだわる阿部速秀(あべはやひで)選手に迫りました!

こんにちは。オーストラリア・メルボルンで競技チアリーディングの選手として活動する笠原園花です。シドニーやメルボルンを中心に、多くの日本人サッカー選手達が滞在しているオーストラリアですが、今回はなんとモンゴルで活躍する日本人選手とのことで、私自身もワクワクしながらのインタビューでした!

サッカーをモンゴルで!? という疑問の声が多く聞こえてきそうですが、インタビューを通して、なぜ阿部選手がモンゴルを選んだのかが見えてきました。

阿部選手の自己紹介

1996年神奈川県川崎市生まれ。モンゴルに渡航するまでは神奈川県で育ち、サッカーとともに人生を歩んできた。9歳で横浜Fマリノスのプライマリー(ジュニア選抜チーム)、10歳で川崎フロンターレのU-12に選抜されるなど、幼少期から日本のトップ技術に触れ、トップ選手達とともに練習をする日々を送っていた。

小学生にして味わった挫折

横浜Fマリノスや川崎フロンターレでの経験は、今でこそモチベーションを高めることにつながっているが、当時はトップ選手達とのレベルの差を感じる毎日で、小学生ながらに「俺は何もできていない」と劣等感でいっぱいだった。

同期達に追いつけるようにと、週3回のチーム練習に加え自主練も行なったが、現在Jリーグで活躍する強い選手達が多くいた環境下で、活躍できる場面は少なく、大好きだったサッカーをプレーすること自体がどんどん辛くなってしまった。

サッカー詰めの日々にうんざりし、「単純にサッカーを楽しみたい」と中学に進学する数ヶ月前に選抜チームを自ら脱退した。

公立の強豪校 西中原中学校へ進学

神奈川県大会は、約400校が出場するほどの高い競争率ではあるが、西中原中学校は県トップ3に入るほどの実力だった。週6日、多い時では週7日の練習をこなすなど、他の中学校と比較し、練習の時間は多かった。

小学校時代より練習がきつかったのではーー。「小学校時代のクラブチームと比べると部内の競争率が少なかったため、練習は辛かったがちょうどいい緊張感を保てた。」劣等感しかなかった小学校時代から、少し余裕のある中学校時代へ。部内で自分がしっかりと活躍できているというその感覚がモチベーションになっていた

中学最後の年に見事県大会優勝を収め、その成績を讃えられ、県内外問わず多くの強豪高校からオファーがきた。

努力する姿勢が認められキャプテンを務めた高校時代

 

小学生時代とは裏腹に、高校入学後も活躍がとまらなかった。入学したのは、県内の強豪、麻布大学付属渕野辺高校だ。この高校では、中学時代に教わったサッカーがそのまま実践されていた。また、スタッフを含めたチーム全員の「辛さを楽しさに変える」姿勢が印象的だった。「ここだ。」直感が働き、他の高校からもオファーはあったが、体験したその日にこの高校への入部を決意した。

高校3年生になると、誰よりも努力する姿勢、試合中の掛け声、チームへの貢献が監督から認められ、キャプテンに指名された。「頭で考えて冷静にチームを見渡せる性格ではない。」だからこそ、チームの誰よりも努力して、その姿勢を背中で見せることに尽力した。

キャプテンとして挑んだ総体神奈川県大会では見事優勝。中学・高校と、自分が活躍できるフィールドで思いっきりサッカーを楽しむことができ、結果も残せた。

大学でも活躍することを期待してーー。

ターニングポイントとなったドイツ・サッカー留学

大学では、神奈川大学体育会サッカー部に入部するも、4年間試合に出る機会がほとんどなかった。ちょうどその頃、「卒業後にサッカーを続けるかどうか」を考えていた時期でもある。試合には出られなかったがサッカーは続けたい。卒業後もサッカー選手として通用するレベルにいるのかを確かめることを目的に、大学2年生に進級する前の春休み2ヶ月を利用し、強豪ドイツへのサッカー留学をした。

このドイツ留学が今後のサッカー人生を決める上での大きなターニングポイントとなった。ドイツで実践されている練習にはこれまでの常識を覆す新鮮さがあった。サッカーで大事なのは「点を取ること」。どれだけ正確なパスを出せても、どれだけ上手いドリブルができてもシュートを決められなければ試合には負ける。ドイツではまさにこの「点を取ること」に焦点を当てた練習が行われていた。

ボールを美しく扱うという美徳はもういらない。とにかく攻める。最も大事なのは点数。生まれ変わりを果たし、帰国後は出場した下部リーグの試合で次々と得点をし、気づけばダントツの得点王に。監督からもその活躍ぶりを認められ、大学2年の後半に、部内のトップチームのメンバーに選ばれた。

しかし現実は甘くない。トップチームには入れたものの、試合に出られたわけではない。さらに、大学4年で怪我をしてしまい、そのまま卒業を迎えるという不甲斐ないサッカー生活であった。

カナダでの失敗、サッカー引退

卒業を控えた2018年11月、カナダで新しくサッカーのプロリーグが開設されるということで、早速カナダまでトライアウトを受けにいった。トライアウトの感触は非常によく、4月の開幕リーグに向けて「3月にまたカナダに戻ってきてくれ」とあるチームからオファーがきた。

しかし、一度帰国してからというものの、一向に先方から連絡がこない。確認すると「プロ経歴のあったスウェーデン選手を代わりに取ることにした」ということだ。技術に不満があったわけではなく、プロ経歴があったかどうかだけの違いだったという。残念ながら、大学でのサッカーはプロではなかったため経歴として価値が低いものだったのだ。

「一生懸命やってきたのに、そんな理由で断られるとは。」この出来事の後、サッカーからの引退を決意した。

幼少期の同期の海外挑戦がきっかけで

サッカーからの引退は「逃げ」ではないだろうかと自問自答する日々だった。そんなある日、川崎フロンターレ時代の同期が海外の有名チームに移籍することを知り、「自分は何をやっているんだろう。逃げてはいけない。」とサッカーへの復帰を試みた。

サッカーには各リーグに移籍期間があるため、その期間を逃すと次のシーズンまで待たなければいけないがそんな暇はない。今すぐ移籍でき、そして「プロ」になれる海外チームを探した。

モンゴルーー。

その両方をかなえてくれるのがモンゴルだった。決してサッカーのレベルが高いわけではない。しかし、カナダでの失敗を生かし、あくまでも「プロ」にこだわった。

モンゴルでの新しい挑戦

現在、首都にあるウランバートルFCというチームで選手として活動している。モンゴルのトップ5チーム全てのトライアウトに合格したが、前年度最も成績が良かった現在のチームに決めた。

モンゴルでは、将来のための経歴を作ることに集中している。モンゴルでリーグ優勝すると国際大会への出場も可能だ。その経歴はアジア内では高く評価される。

ドイツで学んだ「結果へのこだわり」、そしてカナダでの失敗を経て学んだ「プロという経歴の重要さ」。これまでの経験や失敗を全て生かし、いつかJリーグで活躍できることを夢見て、現在モンゴルで奮闘中だ。

まとめ

挫折と活躍をどちらも経験し、今自分がやらなければいけないことに向かって全力で努力する阿部選手の声からは、電話インタビューを通してサッカーへの情熱を感じることができた。何才になっても夢を諦めないという阿部選手の将来の活躍に期待が高まる。

阿部選手をもっと知りたい方はこちら!

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